軍艦~warship~

主に日本海軍の艦艇について

日本海軍 日露戦争

    

明治31年)に租借し、旅順にはロシア太平洋艦隊の基地を造ってしまいます。東アジアにおける南下政策を満州を占領し植民地化しようとします。それに対し日日英同盟を締結しました。支配下に置くという妥協案を日本からロシアに提案しますが、ロシアからは、シベリア鉄道が全線開通すると軍隊移動が容易になるので、その前に開戦すべきとの判断から、1904年2月6日に日本よりロシアに対し国交断絶を通知し、戦争が避けられない状態となりました。
巡洋艦による速射砲攻撃で1893年の建艦計画に基づき戦艦建造予算が申請されていましたが、高額の費用となるため当時の詔勅により、イギリスに戦艦2隻の発注をしたという経緯があります。それが「富士」と「八島」の2隻で、ロシア海軍がハイペースで増強していることを知り、イギリスで建造中の装甲巡洋艦6隻を中心とする第二艦隊を組織した上で、それを統合する日清戦争時の主力艦で構成した第三艦隊も巡洋艦8隻体制で戦うこととなります。

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Japanese_battleship_Shikishima_on_Battle_of_the_Yellow_Sea

    

日露戦争

1904年(ワリャーグ」と防護巡洋艦千代田」、それに第九艇隊および第十四艇隊のロシア海軍の本隊といえるマカロフ中将が戦死します。逆に、5月にはロシアの機雷敷設により、駆逐艦」が触雷し沈没しています。また、濃霧での行動により視界不良となり、駆逐艦速鳥」、12月には座礁沈没しており、旅順港閉塞作戦では多くの艦艇を失っています。第一艦隊は戦艦2隻を失ってしまいますが、その代わりに黄海海戦(こうかいかいせん)となります。しかし、旅順艦隊は応戦せず逃亡を試みたため、防護巡洋艦インドシナコルサコフ沖で追撃してきた樺太を占領した際に浮揚され修理し日本海軍は捕捉できずにいたところ、旅順艦隊の蔚山沖を航海していたところ、蔚山沖海戦(うるさんおきかいせん)が行なわれます。砲撃戦の中、「リューリク」が集中砲火を浴びて戦列を離れることとなり、「ロシア」「グロモボイ」はウラジオストクに戻った「ロシア」「グロモボイ」も破損がひどく修理が捗らない状態であり、日本海軍は、バルチック艦隊により日本陸軍を孤立させることを狙いとしており、バルチック艦隊ですが、対馬海峡を通過し日本海海戦が行なわれます。
1905年(蔚山沖海戦以降は整備と訓練で精度も向上しています。艦隊戦が始まると、高速船による命中度の高い砲撃で日本海軍は、日中の砲撃戦の後、夜間にはバルチック艦隊は壊滅状態となってしまい降伏を宣言したため、バルチック艦隊は沈没が21隻を数え、6隻は拿捕されてしまい、他に6隻が逃走したものの抑留され、勝利という結果になりました。
制海権を奪うことのできなかったロシアでは、帝政に対する国民の不満も増大し革命の萌芽といえる樺太攻略作戦を実施し全島を占領しています。

1905年(満州南部の権益と増税による耐乏生活を強いられていた国民は日比谷焼打事件などの暴動を起こし講和を斡旋したアメリカも襲撃してしまい、その結果、勝利したことで、一躍列強諸国の仲間入りをし「一等国」と自称するようになりました。肥前」となりますが、第一次世界大戦後に除籍されます。標的艦となって沈没します。戦艦「オリョール」は「石見」となりますが、ロシア最新鋭艦でありながら復元性に問題があり、海防戦艦ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」は練習船となり、砕氷艦に改造され、その次には潜水艦母艇となります。ワリャーグ」は引き揚げられて第一次世界大戦中にロシアに返還されています。また旅順港に着底していた阿蘇」「同型艦であったソーコル級駆逐艦山彦」「文月」として編入しています。「レシーテリヌイ」は日本が鹵獲した艦艇で最初は旅順港閉塞作戦中に沈没した「」の艦名を引き継いでいたものの「山彦」に改名されて運用され1917年に除籍となり、「シーリヌイ」は旅順で沈座から引き揚げられた艦艇で「文月」として編入され1913年に除籍となります。

ところで、アメリカは日露ノーベル平和賞を受賞し、東アジア地域への発言権を得るようになり関与を深めていくこととなります。

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Japanese_Fleet_Proceeding_Toward_The_Baltic_Fleet

    

日本海海戦

日本海を進む航路をとりますが、1905年(巡洋艦和泉」が接触し監視します。その連絡を受けた連合艦隊は、前方を北東へと向かうZ旗」を旗艦である戦艦「三笠」に掲げます。

当時の軍艦は舷側に副砲を並べており副砲を使った一斉砲撃をするためには、敵艦に対し横を向く必要がありました。そこで、前進する敵艦隊に対し丁字型で迎える戦法が考えられていましたが、それは敵艦隊の前進を阻むこととなりすぐに丁字を維持できなってしまいます。そこで今回の海戦では、まずは敵前逐次回頭をして敵に圧迫を与えて隊列を混乱させたうえで、連合艦隊側の高速性を活かして同航砲撃戦に持ち込むという作戦を採っています。

14時08分に先頭艦である「三笠」が回頭を終える頃、榴弾による一斉砲撃を行ない、多数の命中弾により火災を発生させます。砲撃戦は30分程続き、火災により「クニャージ・スワロフ」と「オスリャービャ」と戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」が戦列から離脱するなど、装甲巡洋艦アドミラル・ナヒモフ」は主力とはぐれる形となります。「クニャージ・スワロフ」は戦闘能力を失い漂流状態になっていたところを巡洋艦は退避しますが、水雷攻撃で、散開していたロシア艦艇のうち「ナヴァリン」は沈没させられてしまい、「シソイ・ヴェリキー」と「アドミラル・ナヒモフ」は戦闘不能状態となって自沈処分となり、また海防戦艦アドミラル・セニャーヴィン」に第2日本海海戦は終了となります。
しかし、「イズムルト」は逃走を図り駆逐艦ベドヴイ」「グローズヌイ」と合流でき、「ベドウイ」に移乗して「グローズヌイ」とともに鬱陵島付近で装甲巡洋艦磐手」「八雲」と交戦しますが、抵抗をあきらめて自爆沈没します。夜襲を受け航行不能となっていた「ヴラジーミル・モノマフ」はロームキー」も防護巡洋艦オレーク」「アヴローラ」「ジェムチュク」と駆逐艦ボードルイ」「ブレスチャーシチー」は共に行動し南方へと逃亡していましたが、途中で「ブレスチャーシチー」が前日の戦闘による被弾で沈没してしたため「ボードルイ」が救助をすることとなり遅れます。「オレーク」「アヴローラ」「ジェムチュク」はそのままマニラに入港し抑留され、「ボードルイ」は燃料欠乏で漂流していたところをイギリス船に曳航されて上海で抑留されます。

海防戦艦ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」「アドミラル・セニャーヴィン」など6隻が日本に拿捕され、他国に逃げた6隻を除くと、目的地である日本海軍は夜襲時に3隻の日本海軍の大鑑巨砲主義による決戦思想へとつながるものとなってしまいます。

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Japanese_cruiser_Izumo_in_Shanghai

    

日露戦争開始時の艦艇

    

富士(ふじ)

清国の「帝国議会からの承認が得られず白紙となるところが、鎮遠」の明治30年)9月に竣工すると、勝利に貢献し、一等終戦まで残存したという艦歴の長い軍艦であった。

    

八島(やしま)

富士型戦艦の2番艦が「八島」であり、この艦も排水量が12320tと少なく全長全幅にも差異がある。1897年(日露戦争に参戦するが、旅順港閉塞作戦中の1904年5月15日にロシアが敷設した機雷に接触してしまい、約9時間後に転覆し沈没する。

    

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Battleship_Shikishima

敷島(しきしま)

敷島」は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)が置かれた日露戦争には主力艦として参戦し、一等終戦まで残存していた。

    

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Japanese_battleship_Asahi

朝日(あさひ)

日露戦争では主力艦として参加した後、一等ベトナムカムラン湾沖でアメリカの潜水艦サーモン」の魚雷攻撃を受け沈没する。

    

初瀬(はつせ)

流れる河川名である。1901年(ロシア海軍の機雷に接触してしまい、2回目の触雷で後部火薬庫の大爆発を引き起こし沈没してしまう。

    

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Japanese_battleship_Mikasa

三笠(みかさ)

三笠」は敷奈良県日本海軍に引き渡され、佐世保港内で繋留中に後部弾薬庫の爆発事故により沈没着底する。すぐに浮揚修理され復旧し、海防艦となってすぐの舞鶴に帰投している。ワシントン軍縮会議で廃艦と決まるが、保存運動が起きたため、1925年に記念艦として横須賀に保存されることとなった。

    

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Japanese_cruiser_Yakumo_on_completion

八雲(やくも)

須佐之男命(スサノヲノミコト)が詠んだ最初の和歌『排水量9695tで、主砲は20.3cm45口径連装砲2基で副砲は15cm40口径単装速射砲12基を備え、速力は20.5ktである。艦首水面下には未だ樺太占領作戦にも従事している。日露戦争参加艦艇で復員輸送を行なったのは「八雲」だけである。

    

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Japanese_cruiser_Azuma_at_Portsmouth

吾妻(あずま)

六六艦隊のうちフランスに発注した衝角(ラム)も付く。1900年(明治33年)7月に日本に回航されると、練習艦隊に組み込まれるが「八雲」とは別活動をし、1944年に除籍され翌年解体される。

    

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Iwate_at_Vancouver_1933

出雲(いずも)磐手(いわて)

六六艦隊を構成する排水量9773tで、20.3cm45口径連装砲2基に15cm40口径単装速射砲14基と「八雲」「吾妻」とほぼ同じで、蔚山沖海戦で戦果を上げる。「出雲」は、練習艦となり、最後は太平洋戦争末期の1945年7月に呉軍港で米艦載機の攻撃を受け転覆する。「磐手」は練習艦となり、最後は「出雲」同様、1945年7月に呉軍港で米艦載機の攻撃を受けて被弾し浸水着底する。

    

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Japanese_cruiser_Asama_on_completion

浅間(あさま)常盤(ときわ)

ロシア艦隊の増強を受けて急遽、イギリスのアームストロング社で製造中であった輸出用排水量9700tで、20.3cm45口径連装砲2基と15cm40口径単装速射砲14基に、明治32年)には完成しており、座礁するも浮揚し修理することができたが、1935年の大阪湾から呉軍港へ移動中の広島湾での練習艦となるが、大分県佐伯湾での機雷敷設訓練中の機雷爆発事故により「常盤」は損傷してしまい、修理後しばらくは予備艦となっていたが、終戦を迎えた。

    

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NisshinPortSaid

春日(かすが)日進(にっしん)

日本海軍創設期の存在艦の二代目である。チリと対立していたアルゼンチンがイタリアに建造を依頼していたところ、チリと和解したため不要となった軍艦で、イタリア海軍独特の前後対象デザインであり、防護巡洋艦吉野」に衝突し沈没させてしまう。同じ日に戦艦初瀬」「八島」も触雷により沈没しており、そのため「春日」と「日進」は当初は戦艦6隻で構成されていた第一艦隊に配属され、第二艦隊の樺太占領作戦にも従事し、樺太占領作戦に従事し、第一次世界大戦時は地中海で船団護衛任務をし、その後は横須賀に繋留され新兵教育施設として利用される。

    

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Japanese_cruiser_Takasago_at_Portsmouth

高砂(たかさご)

高速と速射により日清戦争後の第一期拡張計画で発注されたため、機関や兵装が改良されている。「吉野」を建造したアームストロング社エルジック造船所で既に起工され建造中であった「吉野」と同等の明治31年)5月に就役し、黄海海戦に参加するが、旅順港閉塞作戦従事中の1904年12月13日に旅順港外で機雷に触れ転覆沈没する。

    

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Japanese_cruiser_Suma_in_1897

須磨(すま)明石(あかし)

国産初の排水量を500t程減らしたため、主砲は半減されたが速力は向上している。「須磨」は、明治29年)12月に就役し、明治32年)3月に就役し、第一次世界大戦では青島攻略戦の後、第二特務艦隊の旗艦として地中海に派遣され船団護衛に活躍するが、1928年に除籍され急降下爆撃の実艦標的となり海没する。

    

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Kasagi_1898_in_UK

笠置(かさぎ)千歳(ちとせ)

排水量が大きくなり兵装が若干強化されている。「笠置」は、1898年(明治32年)3月にサンフランシスコで竣工され、第一次世界大戦では青島攻略戦の後、1916年7月に大正天皇)が沼津日露戦争には第一次世界大戦では青島攻略戦等に参加した後、1928年に除籍となり土佐沖で実艦標的となり撃沈処分される。

    

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Japanese_cruiser_Niitaka_in_1918

新高(にいたか)対馬(つしま)

対馬」である。須磨型対馬」の建造は呉排水量3366tで速力は20ktであり、主砲として15.2cm40口径単装速射砲6門を有しているが、他の軍艦には装備されている魚雷発射装置は小型艦であることや誘爆リスクの排除を目的に廃止している。「新高」は、日本海海戦では主に「明治37年)2月14日に竣工し、直ちに1921年に二等対馬」は、1939年に除籍され横須賀海兵団三浦半島沖で雷撃訓練の標的処分とされる。

    

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Japanese_cruiser_Otowa

音羽(おとわ)

新高」「防護巡洋艦よりも小型となる。日露戦争に参戦し、志摩半島大王崎で座礁し船体が切断され沈没する。

    

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Kasumi_Torpedo_Boat_LOC_ggbain_16980u

(あかつき)

当初、第13号1880年代に駆逐艦として発展する。駆逐艦は進化する。海軍力強化を図る駆逐艦6隻(「(いかずち)「(いなづま)」「(あけぼの)」「(さざなみ)」「(おぼろ)」「(にじ)」)とソ-ニクロフト社製の排水量322tで8cm単装砲1門と5.7cm単装砲5門に45cm魚雷発射管2門を備え速力は30ktであった。これに続く第二期拡張計画で建造された朝潮(あさしお)」)である。暁型は駆逐艦(「春雨(はるさめ)」「村雨(むらさめ)」「速鳥(はやとり)」「朝霧(あさぎり)」「明治35年)1月に日本に回航された後、駆逐艦レシーテリヌイ」をロシアを欺く目的でそのまま利用する際の日本側艦名として「」を使用した。この艦は、後に「山彦」と改称される。

 

gunkan

 

 

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